主人公のアーサーは知能障害がある。
子供の時の母親の恋人から受けたひどい暴力により、脳に障害を持つ身となった。
道化師、コメディアンとして生計を立てるが、母親思いの心優しさは伝わる。
ネタ帳を持ち歩いているが、スペルミス等で明確に知能障害がみられる。教育による知能の低さとは別次元のものであることに着目。
ネタ帳の文字を見れば、純粋に知能に問題があるため、まともな職につけなない、友達がいない理由が伝わる。
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お笑いといじめの関係、アーサーは誰にいじめられる?
映画では「笑い」が一つのテーマになっています。主人公アーサーは、自分の意図しないところで「笑ってしまう」脳の機能障害を抱えています。
この笑いというのは、「いじめ」と深く関係しているテーマです。多くのお笑い芸人は、いじめられる側(ボケ)を演じて、観客を笑わせます。アーサーが演じる道化師は、観客がツッコミを演じて、道化側がボケるという構造です。いわば、観客がいじめっ子、道化師はいじめられっ子です。いじめっ子がいじめて、それがおかしくて笑う構造です。
これを意識させるのが、冒頭の看板を道化師(アーサー)から奪い走り去る、ワルガキ(ストリート・チルドレン)たちの登場場面です。ワルガキは追いかけてくるアーサーから逃げ続けるのかと思いきや、途中で反撃してアーサーをボッコボッコにし、嘲笑います。
このワルガキはただのワルというのではなく、学校に行けていない身分のワルガキです。学校に行けていない理由はおそらく様々でしょう。自分より劣った者を見つけては、カモにして略奪といじめを繰り返し、成長していきます。ワルガキ同士で仲がいいように感じますが、もちろん社会からは排除された子供がより固まっただけですので、いわゆる友達ではなく生きていくための慰み者同士としてくっついているだけで、いわゆる友達というより、悪友、犯罪友達に近い感じです。
アーサーは、このワルガキ連中、はたまた世間に、弱いものとしてカモられ、いじめられるという構図ができています。
映画の中盤では、アーサーは地下鉄でウェイン産業(ブルース・ウェインの会社)のガラの悪い社員に絡まれます。ゴッサムシティの中ではウェイン産業は日本の三菱重工社員のごとく、エリート社員のはず。少なくてもアーサーから見れば、世界が違うほどエリートの人たちです。しかし、その社員も大企業たるウェイン産業の中では、厚遇されているわけではなく、ただの社畜のはずです。つまり、会社の中ではいじめられる側なのです。このことは、地下鉄の中でわざわざファーストフードを食べたり、数人で女性に下品なナンパをしかけるところから、エリートのふるまいからはかけ離れているところから読み取れます。この社畜連中も、自分より弱い立場のものを見つけていじめる、カモるという構図がここにもあることがわかります。
嫌な話ですが、いじめられた人たちが、より弱い人を見つけていじめ返すという、消耗するだけの悪循環ループが、ぐるぐる回っているのがジョーカーで描かれているゴッサムシティです。
アーサーのネタ帳をチェック、なぜ左手で書く?それと英語の勉強
アーサーは右利きで、ネタ帳をつけています。よくある英米人の手書きですが、明らかにスペルミスがあります。英語ネイティブにとっては、三単現の「s」のつけ忘れや、発音をそのまま聞きとって文字化してしまうようなミスは、明らかにナメられるミスで、教養が低いとかではなく知能が劣っていると判断する傾向にあります。つまり、「○歳児レベル」という小馬鹿にした表現で揶揄されます。
アーサーには明らかにその傾向が見られ、「insomnia」とすべきところを「insomneea」、「people」とすべきところを「peeple」と音をそのままスペルアウトしてしまっています。ラップミュージックなどではアリなこともありますが、普通のメモ書きでやってしまうとヤバいです。日本人が英米人に意外と実務でナメられないのは、義務教育で徹底的に読み書きを叩き込まれるだけで、ある程度の学年に進めば三単現の「s」を落とすような人は少数です。特に外国で働きたいというような人では皆無に近いのですが、英語が母国語でない他の国の人は高学歴の人でもよくやってます。アーサーはこれとよく似たミスで、「confused」とやるべきところを「confusd」とやってしまっています。アルファベットの前後の入れ違えなどを、この程度の短文で、わざとやったかのようにミスってしまうと、ミスの部分で笑いを取ろうとしているのか、それとも地の文で書いたジョークで笑わせたいのかわからなくなってしまいます(つまり、笑えないってことです)。つまり、ヤバいってことです。余談ですが、天才系の人にも同様の症状が見られるそうです。
前半のミススペルのパートは右手でさっさと書いて、ペンをタバコに持ち替えて一服します。そして思い出したように、右手ではなくて左手でペンで「people expect you to be have as if you dont」、「'」がないのは脳の問題ではなくて、わざとだと思います。なぜ左手でわざわざ書いたのかという点は、諸説ありますが、「右手でタバコを吸いながらオチを書きたいので、右手は空けておいた」や「右手で書くとこじんまりとするので、オチの部分はたっぷりふざけて大きく左手で歪ませて大きく書きたかった」「ジョーカーの悪の部分が出るとき左ききになる」など、諸説あります。多重人格者の場合は、人格の発現次第で利き腕も変わることがあるそうですので、変にこだわると訳が分かんなくなりますね。
[英語の勉強]"The worst part of having a mental illness is people expect you to behave as if you don't."
アタマがイカれちまって最悪ったらありゃしないのが、(イカれているオレに)それでもまわりが普通にしていてほしいって思っていることさ。
英語の勉強では、「as if 仮定法」という定石を頭に叩き込めれますが、このアーサーのネタはそうなっていません。主節と同じ時制(現在形)が使われていています。ここはアーサーの脳機能障害で普通に間違えたとも取れますが、普通に読むべきでしょう。as if のあとに現在形(直接法)が続く場合は as if 以下は話者がそう思っていることの描写です。つまり、このセリフでは "as if you don't have a mental illness" が「実際には心を病んでいないんだけど」と思っている言外のニュアンスがあります。変な感じですが、「話者」であるアーサーにしてみれば、自分には精神疾患はないんだけど(アーサーは脳機能障害で精神の病ではない)ということです。
この点は、訳だけ読んでいるとピンと来ないと思います。ネタ帳は日記ではないので、事実を告白するところではなく、セリフを考えて書き出すページです。もっとくどく訳すと「心を病んでいるって言ってんのに、普通にしてろって最悪だぜ、ってアンタの心は病んじゃいないとは思うけど」みたいな感じです。短いシンプルな訳を深刻に受け止める人が多いセリフですが、アーサー的にはネタのつもりです。笑えませんが、サイコパスでない人にサイコパスであるかのように振る舞えってんなら意味は取りやすいのですが、更にイヤミを効かせて、「サイコパスではない人にサイコパスでないように振る舞ってみて」と言ってるようなもんですね。英語関係の読み取り試験では話者がどう思っているかなんて客観判断できませんので、定石通り「as if 仮定法」の馬鹿の一つ覚えでなんとかなります。
ジョーカーの涙の右と左を一応検証
ジョーカーが右利き説、左利き説があって、上のネタ帳でも議論があるようですが、どれほどこのことに深い意味があるのかは鑑賞者次第だと思います。
面白いなと思った説は、多重人格の場合、人格の発現によっては利き手も変わるらしく、アーサーに置き換えると、人を殺すまでは右目に涙を描き、殺してからは左目に涙を描いている点です。ジョーカーが脳機能障害で人格機能が低下したということはあっても、それで多重人格化するのかまでは不明です。でも脳の世界は何でもありらしく、「すべてアーサーの妄想」という最終兵器的な解釈を取り入れるなら、ホントに自由に楽しんで問題なさそうですね。
右目の涙と左目の涙を意識的に描き分けているのか、無意識なのかは不明です。唯一映画の中でヒントだと思ったのは、一度タバコを右手で掴むと、タバコを離そうが離さまいが、右手をしばらく遊ばせる癖です。それは、次の一服のために右手を空けているのか、あるいはニコチンのついた右手で何かを掴みたくないのかもしれません。この程度は無意識にやると思います。
タバコを吸う暇なしに、楽屋で一生懸命にメイクしているときは右手が空くから、右手で右目に涙のメイクをする、殺しをやってビッグになったジョーカー(アーサー)は、タバコを吸いながらなので、左手で左目にメイクという解釈もできますね。余談ですが、右利きにしたり左利きにしたりは、俳優ホアキン・フェニックスのアドリブも入っているらしく、必ずしも整合性が取れるものではないそうです。(ホアキンはセリフを覚えこんで演じるタイプではなく、役になりきって現場でセリフをねじりだすタイプの役者だそうです)
どこまでかアーサーの内面の描写なのか?
いきなりネタバレになりますが、本作品はジョーカーの妄想シーンが数多く入っています。一番マトモな見方は、「いじめられたりしするシーンは現実」「近所の子持ちの奥さんと恋中になるのは妄想」「地下鉄で殺人を犯すのは現実」と、一般的な意味での「社会適合かつ善行のシーンは妄想」、「社会の悪としての振る舞い部分は現実」というものです。映画の作りそのものがそうなっていますので異存はありません。
しかし、アーサーには脳機能障害があることと、記憶力や妄想癖に問題があることを踏まえると、「社会適合かつ善行のシーンは脳が正常に働いている状態でのでの妄想」、「社会の悪としての振る舞い部分は、脳機能障害が全開しているときの妄想障害」と見えなくもありません。そうすると、悪としてカッコヨク振る舞える場面もわかりやすくなります。実際の悪党はそんなにカッコいいものではないので、悪でも善でも、カッコいいシーンはすべて妄想と考えるのもアリかと思います。では、誰がその妄想をしているのかといえば、精神病棟にいるアーサーとか、軽犯罪で捕まって留置場にいるアーサーとか、無理やり考えるのも楽しいもんです。ラストシーンは妄想なのか、どうかも面白い問題ですね。
友達のいない孤独な闘い
アーサーは普段から友達のいない人です。周りからもとめられていない人です。何かにかかわろうとすれば、「放っておいて」と遠ざけられます。
アーサーに言い寄られた人にしてみれば、気持ち悪い人にいきなり何か切り出されたという感じにしか受け取れません。これが、アーサーに与えられた切ない事実です。
いじめる側からしてみれば、アーサーがフルボッコされるのを見たり、そのことそのものが面白いといえるかもなのですが、アーサーにしてみればたまったものじゃありません。ワルガキやチンピラにフルボッコにされ、それをまわりの人が笑って見ている、プロの道化師ならこれぞプロの猿芝居というところでしょう。しかし、アーサーの場合、マジで殴られて、マジでイヤなので、まわりは笑っているんじゃなくて「助けてくれ」、オレとかかわってくれということを期待しているわけです。少しでも人とつながりを持ちたいアーサー、でも誰も繋がりたくないまわりの人、この状況の辛さがヒシヒシとわかるところです。
映画の終盤では、ゴッサムシティで多くの人がピエロのマスクをつけ、暴動を起こします。この多くの人は、まわりから求められていないという悲しい立場の人ばかりです。
これは、ピエロマスクの多くの人が同じ列車に乗りつつも、誰も互いに会話していない点からわかります。誰も会話しない、求められていないから会話が成立しない、孤独な人たちが集まった場面であるわけです。
友達がいない人の群衆なので、いったん連中同士でケンカが始まるとだれも止められない、すぐさま干渉しようとしないわけです。つまり、ケンカを始めた人たちのどれが自分の仲間か判断できず、どちらに加勢しようとも遠ざけられる、鬱陶しがられるだろうというメンタル作用が働くからです。
しかし、いったん警官が止めに入ると、そこで「警官」と「ピエロマスクたち」という構図が出来上がります。つまり、敵と味方の構図が出来上がります。「警官」の方が敵だとわかれば、敵をボッコしようと攻撃に走ります。同時に、この構図では「ピエロマスク」が自分たちの仲間、友達であると認識するわけです。警官をボッコにしていると友達と繋がれるという思ってしまいます。
この孤立の構造は、ピエロマスクを会社や学校、自治体内の人間関係に置き換えるとよくわかるはずです。特に(鬱陶しがられる、おとなしくしていろと言われる)男性は、このような孤立が普通にあります。この映画にハマる人は、そういう経験があるのでは。
孤独なアーサーがどうやって人間関係をつかみ取るか
アーサーは映画の中で、劣っている人間として描写されています。普通の社会に適合したいけれど、できない。かわいそうなのは、自分が劣っているということを認識できるレベルの高度な知能が、一方で備わってしまっているところです。劣っている人間が、友達を作る以前に人と関係を持つには、人から何かで注目されるしかありません。子供のときに、駆けっこで一番をとる、成績一番で表彰されるなど、何らかの人から注目される点が必要です。もちろん、これが悪い面で注目されるのもありです。ジョーカーの場合は当然、後者のケースを選択します。
道化師としてパフォーマンスを行っても、注目はされますが、そのパフォーマンスは笑いの才能からくるものではなく、自分の劣っている部分を暴露して恥をかいているだけで、ひたらす自分を消耗させているだけでした。ところが、暴力で人を制圧するということは、多くの人が選択しない注目のための手段です。しかし、何が悪で善かの正義を変えてしまえば、自分にはそれができる、合っていると気付き始めます。暴力で人に怖がられれば、アーサーの場合は人との関係ができやすくなるということにも気づきます。また、精神面でもぶっ飛んでいるので、自制心のないマシーン的な実行力は常人より優れています。
この構図は、絵空事ではなく『仁義なき戦い』の一部でも描写されているように、デキの悪い子が大人になったら暴力団に入るというのと同じことです。子供時代は腕力がものをいう場面が多いですが、ある程度の年齢になるとそうはいきません。腕力でしか語ることができない子は、昔のワルガキ時代のように、安直に暴力組織で新しく関係を作り直したわけです。
ゴッサムってどういう街よ?
ゴッサムシティは犯罪の街という印象をどうしても抱いてしまいますが、そうとは言えません。常時犯罪が多発していたとしても、かつてのニュー・ヨーク市程度の話です(十分それでも怖いですけど)。マッドマックスや北斗の拳の設定(ほとんど常時戦火状態)とは全く別物です。
この様な、日常的な暴力の街という印象は、実は日本社会の中でもかつてはありました。関西地区で、警察官が暴力団から接待を受け賄賂を受け取り、賄賂を支払わなかったチンピラをシメていたという事件がありました。地域の住民が決起して、駐車している車が焼かれたり、コンビニに火炎瓶が投げ込まれたり数週に渡って暴動が起きたことがあります。警察は手が出せず、警察が被害者になってしまうという、ホントに日本国内かと思うような光景でした。そのため、見る人によってはこの程度の暴動は、戦火の中での出来事というより、地域によってはホントにありえると感じた人もいるはずです。
このゴッサムシティから予想されるのは、人口の一割弱がまともな社会参加ができない都市で、その一割が暴力という形で参加してくる社会です。その一割の人は、暴力以外の選択肢がなく、それ以外の方法で参加しても、おとなしくすることを強制され、自然とその共同体から排除されます。
ジョーカーは、その約一割の人に対して、「お前らも、暴力という形でなら社会参加できるよ。怖がられるので、まわりに意識してもらえるよ。さぁ、社会の一員になろう!」とメッセージを送るわけです。
これを現実社会に引きなおすと、日本規模だと(日本)社会と関係を(最低限にしか)持たない人が、数パーセントいるだけで、その人達がいびつな形で社会参加し始める(例えば、いびつな形で選挙権を行使するなどする)と、十分に日本はゴッサム化します。外国人なにがしなどの権利を与えるなど諸々のことは、将来の日本をどう導きたいのかにも関係しますので、奥深い内容ですよ。力による暴力だけの話でもありませんね。
ジョーカーはなぜ笑うのか
本編で出てくるアーサーは、意図しない時に笑ったり、悲しさが募り募ったときに笑い始めたり、精神の何らかの不調を感じます。ここで、簡単にアーサーは精神障害を抱変える程度と捉えると間違えます。
アーサーが、バスで女性に注意されて、普通なら落ち込むべき場面で、突然笑い始めます。すぐさま、脳機能障害がある旨の証明書を見せて、自分の子の笑いはおかしくて笑っているのでないと示そうとします。
この場面は、アーサーが普段から自分の感情を押し殺してひたすら生きているため、つらいこと、怒りが抑えられなくなった時など、感情が爆発する場面で、「笑い出す」ことになります。
脳の機能障害で、アーサーは笑ってはいけないところで笑う人だと突き放して鑑賞すると、このアーサーのことは訳が分からなくなります。
ジョーカーは、映画の最後では殺人を犯し笑いますが、この時の笑いは脳の機能障害からくるものではありません。「やばいことやっちゃったよ、どうなっちょうんだ」というような、感情ではなく、普段から感情を押し殺して生きている自分自身が解き放たれたときの感情表現です。つまり、「殺したかったやつを殺せた」という解放された感情がジョーカーを笑わせているわけです。
かつては、人から「笑わられる」立場であったジョーカーが、今度は「笑う」立場にかわります。
ジョーカーにとって人を幸せにするというのはどういうことか
映画の冒頭で、ジョーカーは涙を流します。大好きな母親から「人を楽しませ、幸せにするあなたはかわいい」と教えられ、道化師を演じることでそれを実行しようとします。
しかし、道化師のメイクをしているときに、自然と涙が流れてきます。それは、本当はそんなことしたくない、道化師をやりたいわけじゃないということなのでしょう。
映画が始まったばかりのこの場面では、ジョーカー(アーサー)の脳機能障害のことはまだ観客は知りません。感情が爆発するわけではないので、アーサーの脳機能障害の症状は出ない、つまり笑いません。この場面は、すの感情がででひたすら涙が出る場面です。
あとがき
映画『ジョーカー』が制作されることを知ったときは、またB級を作るのかと嫌な感じがしていましたが、出来上がってみれば予想したものとは全く違ったものになっていたので、少し感動しました。というのも、『バットマン』や『キャットウーマン』は地雷みたいなもので、腕のある脚本家が手掛けてもゴミにしかならないとされていたからです。このトッド・フィリップス監督の『ジョーカー』とクリストファー・ノーラン監督のバットマン三部作は珍しい例外といってもいいはずです。事実、ザック・スナイダー監督の『ジャスティス・リーグ』は悪い作品ではありませんが、描かれているバットマンはコウモリといったカッコの良いものではなく、台所で夜中に走り回る、黒光りのゴキ被りみたいなものに見えます。また、比較的最近(でも10年以上も前)の作品、ハル・ベリーやミシェル・ファイファーをキャスティングした『キャットウーマン』は中身がスカスカでひどいものでした。
主人公アーサーも、若造に設定しているのではなく、ある程度哀愁を感じるか感じないかの微妙な年齢を想定させるので、ガキが見る映画というだけでなく、いい歳のオヤジ世代にも内容的に楽しめる映画になっています。特に社畜として勤続十年超えの人、もしくは引退間近で、組織で孤立を感じている人にはグッと刺さるものがあるはずです。若造でシリアル・キラーを設定してしまうと、どうしても暴力のゴリ押しを描写して観客の期待に応える必要がありますが、本作品の設定だと、登場人物の内面にフォーカスする必要かあるため、役者の実力がモロに出てしまいます。変顔してごまかすのがうまいというだけのような、役者が実力不足だと、デニーロの配役無駄遣い、そもそもデニーロにキャラ負けしてしまいます。ホアキン・フェニックスは見事にその期待にこたてくれていると感じます。
『ジョーカー』も過去の作例(最近では『スーサイド・スクワッド』)からして、ただのガイキチくんを派手に描写するだけで、殺人マニアをひたすら描いて終わってしまうんじゃないか・・・と普通に思っていました。20世紀のバットマン系には辟易していた私でしたが、脚本を大きく手直しして、中身に厚みをもたせた作品が登場してきたおかげで、予想外に楽しめました。次は『キャットウーマン』のマジのリバイバルメイクを期待しています。
見終わって思うのは、ジョーカーが悪のインフルエンサーで、アーサーのジョーカーが廃れれば、また別人のジョーカーが登場するという設定を作り出したかったのかもということです。だとしたら、次にどの監督がDCコミック系の作品を制作しても、その都度調子のいいジョーカー設定が可能になります。なら、デニーロがシジイ世代のインフルエンサー、ジョーカーを演じても面白い作品になりそうですね。シジイ版、中年版、若造版、青年版のジョーカーをそれぞれ鑑賞してみたく思います。多分、青年版が一番駄作になるリスクが高いように思いますが、監督次第では大ヒット話題作が作れるかも。
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