イギリスで1970年に結成されたロックバンド、クイーン結成からボーカルだったフレディ・マーキュリーのソロデビューに至るまで、フレディにフォーカスしたほぼ実話に基づく映画。作品ではクイーンの1985年のライブエイド出演まで描かれています。脚本はアンソニー・マクカーテン、主演のフレディ・マーキュリーはラミ・マレックが演じています。クイーンの現役メンバーであるブライアン・メイとロジャー・テイラーは、音楽プロデューサーとして参加しています。そして、重要どころの監督は『ユージャアル・サスペクツ』のブライアン・シンガーです。
この作品を見る人で、生のフレディ・マーキュリーを知っている人は現在おおよそ40代以降だと思います。70年代後半から80年代の初めは、ロックスターといえばフレディ・マーキュリーでした。ミック・ジャガーはどうなんだというツッコミが入るかもしれませんが、スターとしての当時のピーク値だけ見ればフレディ・マーキュリーの方が高かったように思います。
映画で見るフレディと当時の印象の違い
個人的な感想ですが、音楽こそ流行っていたので知っていますが、バンドのメンバー等はそれほど詳しく知識がありませんでした。当時の大衆向けの音楽情報としては「FM STATION」をはじめとするエア・チェック系の週刊誌(ラジオFM放送の情報誌)がメジャーでしたので、雑誌に書かれている程度のことは私もよく覚えています。当時のフレディ・マーキュリーの写真から受ける印象は、子供心ながらにイケてる英国人、近くにいたらヤバそうな外国人という印象で、フレディの歯並びが悪かったことなどは記憶にありません。そもそも、フレディ・マーキュリーをネイティブの英国人と思っていたのですが、実はインド(ペルシャ)系移民(つまりインド人)で、ゾロアスター教徒の家柄出身、そして移民差別を受けていたことなどは映画で初めて知りました。音楽雑誌にはあまりそのような情報がなかったように記憶しています。いずれせよ、映画からは伝わりにくいようにも思いますが、当時の英国の物価等を考慮しても、フレディの出身はかなり成功した移民の裕福な家柄だと思います。
フレディ・マーキュリーの印象を端的に言ってしまうと、型破りの芸術家・パフォーマーという感じでした。背中を大きく切り込んだシャツや、股間を意識したようなタイツ姿で歌うフレディは、当時の感覚からは派手に思いましたが(今ではフレディの派手さを超えるパフォーマンスが当然ですが)、セクシャルアピールが強い歌手という印象です。胸毛を見せびらかすように上半身裸になる演出は、同年代のヘビーメタル系のバンドより、パフォーマンスはドギツイ感じで、18禁どころか、15、13禁でちょうどいい感じでした。当初はそのパフォーマンスが、てっきりそれが女性に向けられていると思い込んでいたのですが、往年のジョージ・マイケル同様、実は同性に(も)向けられていたことも後々に明らかになります。
本作品は、 U-NEXT や Amazon プライムビデオ で視聴できます。深堀り、フレディ・マーキュリーの私生活
フレディ・マーキュリーは私の知る限り、HIV感染を公表した初めての有名人(ロック歌手として)だと思います。当時の HIV は不治の病、死の病、変態が感染する病など、今とは違う印象でとらえられていました。もちろん、今でもHIVに感染すると完治はしませんが、発病しないまま一生を全うすることができるものになっています。そのため死に至る病というのはズレてきていとて、また変態が感染する病というのも、ただの偏見だということも知られています。ただ、性感染症としての HIV は以前メジャーですので、少しでも身に覚えがある方は検査をすることを強くお勧めします。
本映画と実話との違い(バンド編)
クイーンのデビュー当初はまったくの鳴かず飛ばずで、映画のように急速にスターダムに上り詰めたバンドではありません。そもそも「クイーン」というバンド名が英国では物々しく、当初はイロモノ扱いされていました。音楽においても、映画では独創的な感じでほめたたえるシーンが多いように思いますが、当初は商業的に誰誰の二番煎じなどという酷評が多く、それは決して短くない期間続きました。
日本国内でもよくあることですが、クイーンとしての最初の契約はほぼほぼブラック制作会社と交わすこととなり、契約条件は圧倒的にクィーン側に不利でした。そのためバンドとしては、金銭的に受難が長く続き、「ボヘミアン・ラプソディ」がヒットしたにも関わらず、その後もフレディとロジャーは古着屋(二人ともデビュー前から古着屋を続けていた)で収入を得ていました。映画でフレディがたくましくレコード会社を手玉に取るようなふるまいをしますが、そんな態度がとれるようになるのはずっと後のことです。
その後、英国で9週連続で「ボヘミアン・ラプソディ」が第1位を獲得し、大ヒットを飛ばしますが、その後も、批評家たちへの受けの悪さはそのままでした。メディアがクイーンを応援していたわけではないのに、バンドとして大ヒットしたのは、紛れもなく、クイーンとしてのパフォーマンス、その音楽性に引きつけられたファンの心をしっかりつかんだからです。メディアがサクラを大量導入し、ヒットチャートの1位を商業的にもぎ取るような、よくあるメディアに支えられた成功ではありませんでした。「ボヘミアン・ラプソディ」の大ヒット後に爆発的に増えた何か初めての興奮を探し求めていた新しいファンの心をつかんだことこと、クイーンの成功への道のりそのものです。パフォーマンスの成功そのものは、フレディ・マーキュリーの奇抜なアイディアによるところが大きく、良くも悪くも批評家の絶好のネタにされました。
本映画と実話との違い(フレディ・マーキュリー目覚め編)[映画にはない話]
フレディは生前に自身の性的嗜好について語ったことはありません。彼の死後に周りから漏れてくる告白(フレディと関係を持った人の告白)から、推察がすべてです。
フレディの最後のパートナーがジム・ハットン(男性)であったことは、映画にも描かれています。一方、元婚約者のメアリー・オースティン(女性)のことも生涯愛していたと言われています。このことも映画で描かれています。映画の流れからは、メアリーと婚約し、その後、フレディの同性愛が覚醒し、以後ゲイの道を行くがのごとくのような印象を受けますが、この点も様々な異論があるところです。
フレディは生前に自身の性的嗜好について語ったことはありません。彼の死後に周りから漏れてくる告白(フレディと関係を持った人の告白)から、推察がすべてです。
フレディが元婚約者メアリーの前に、アートカレッジ時代に知り合い、彼女としての関係があった恋人、ローズ・ピアソンの告白が興味深いです。ローズは当時アーティストでしたが、フレディはゲイだと確信した時が何度かあったと、であると明確に感じた出来事があったと、テレビ・ラジオ番組を扱う英国週刊誌に答えています。
「ヴィクトリア&アルバート博物館に行って、エドワード・マイブリッジによる、男性が裸でレスリングをしている写真作品を見た。彼が、アートへの評価という以上に惹きつけられていることが分かったの。そしてその後、ケン・ラッセルによる『恋する女たち』を見に行ったら、彼はレスリングのシーンに惑わされていた。彼は映画館でもう一度すべてを見返したがっていて、私は血の気が引いた。映画が悪いものだったことが理由ではなく、それが意味することに。あれは転換点だった」
このことから、最終的に恋人(女)としては、フレディが「男性との恋愛関係を強く望んでいる」ということに気がつき、自分からフレディの元から去ることにしました。
本映画と実話との違い(フレディ・マーキュリー私生活編)
本作品ではフレディは、1985年のライブエイドの直前に、メンバーに自分が HIV ポジティブだと告白して、その勇気を糧に世紀の大イベントを乗り越えますが、実際はどうも違うようです。
フレディが1986年10月、ロンドンでHIVの血液検査を受けたとされますが、本人は当時陽性判定は否認していました。ただし、フレディの死後、最後まで寄り添ったパートナーのジム・ハットンは、フレディ本人はは1987年4月には、自身の感染を認識していたと述べています。1986年後半から、フレディは幾度かマスコミのインタビューでは、HIV 検査では ネガティブだったと答えていますが、英国のマスコミは1989年後半頃からの、クイーンのツアーへの不参加、そして、何と言ってもフレディのやせた外観、かつても乱痴気騒ぎのうわさから、エイズに感染している可能性が濃厚だと報じていました。(この記載はウィキペディアにもある)
これはのちに明らかになったことですが、フレディがライブエイドの直前、1985年5月に新宿のゲイバー『九州男(くすお)』に来日しています。そもそも、フレディはもともとの親日家で、日本庭園とかが大好きだったようです(自宅の庭にミニチュアがあったそうです)。当初から寿司も好きで、新宿のゲイバーでは紳士的に同性と夜のお営みもたしなんだそうです。そのため、ある程度の関係者には、フレディの性癖などが知れ渡っており、彼が HIV 感染者であるという異様なまでの追っかけ取材のモトネタを提供した感じになっていました。
その後フレディのやつれた写真スクープがマスコミにより公開されましたが、フレディ本人や同僚・友人に至るまで、フレディり HIV 感染を否定していました。
フレディの死後、1993年のインタビューでは、クイーンのメンバー、ブライアン・メイは次のように答えています。
「自分(ブライアン・メイ)を含め、クイーンの他のメンバーがフレディの病について正式に知らされたのは、彼の死の直前だった」
そしてさらに、2019年のインタビューでは
「ライブ・エイドの時、彼が何某かの体の不調に関する問題を抱えているのは誰もが感じていて、それは明らかだった。フレディが放射線治療を受けているのも知っていた。ても、疑うだけで、直接聞く勇気はなかった」
つまり、映画で描かれたように、ライブエイド参加表明の直前にフレディが告白するような場面は、現実にはなかったということになります。あくまで、フレディを含めクイーンのメンバーは自分の仕事を完ぺきにこなしたというだけのことだったようです。メンバーがフレディを同情して勇気を出して導いたなんて話ではありません。プロだからプロとしての仕事をしただけのことだそうです。
また、フレディ・マーキュリーは本作品では途中からゲイ一本(同性愛者)といて描かれている感がありますが、現実のフレディは両性愛者で、パートナーが男性でも女性でも問題なかったようです。死の直前の、彼の最終パートナー(ジム・ハットン)だけがクローズアップされがちですが、当時一世を風靡したフレディ・マーキュリーですので、パートナーは男女ともに複数いたと噂されています。ただ、死期が近づく数か月前からは、ただ一人のパートナーとだけ過ごすようになり、死と向かい合ったと語られています。それでも、この点は噂の域を得ない情報も多く、後々にフレディと関係を持った人(の死後の)の告白本や日記などが公開されないかぎり、核心には迫れません。
フレディの死と向かい合い方
有名なミュージシャンが早死にする例はいとまがないのですが、フレディ・マーキュリーも1991年11月24日の夜に45歳で他界しています。映画では単調に端折って流されたのですが、本記事で少々補っておこうと思います。
クイーンとしては1991年6月まで、バンド仲間と一緒に活動していたフレディですが、その後、フレディは英国ケンジントンの自宅に戻ります。死期が近づくにつれ、フレディの視力は衰え始め、容体は急速に悪化し、すぐにベッドから出られなくなるほど衰えます。すぐに来るであろう死を感じ取り、フレディは痛みを抑えるため痛み止めだけを服用し、それ以外の薬の服用をほぼやめてしまいます。そして、自身の死と向き合う決断を自ら下します。
そして、11月24日夜に、フレディはエイズによる免疫不全に伴う気管支肺炎によりケンジントンの自宅で息を引き取ります。翌日の午前には、新聞とテレビにフレディ・マーキュリーの死が報道されました。翌年の1992年4月20日には、ロンドンのウェンブリー・スタジアムでフレディ・マーキュリー追悼コンサートが行われました。
フレディ・マーキュリーの死後、生前に残した遺言にしたがい「ボヘミアン・ラプソディ」の印税がエイズ基金「テレンス・ヒギンズ・トラスト」に寄付されることになります。
HIV のパートナーをどう想うか
本作品でも描かれていますが、ジム・ハットン(男)がフレディ・マーキュリーの最後まで寄り添うパートナーとなります。映画で描かれたような出会いであったのかどうか不明ですが、ジムは温厚でやさしい人柄だったと言われています。HIV ポジティブのフレディを温かく見守り、看病し、死を迎える最期の時まで付き添いました。
実は、ジムも HIV ポジティブでした。ほぼほぼフレディ・マーキュリーのからの感染だと考えられますが、ジムがこのことを口外しなかったのは有名です。当時の情勢を考えれば、口外しないに越したことはないと判断しただけのことだったかもしれないのですが、それは、パートナーのフレディがそれを知れば罪を意識するだろうとの心遣いからか、フレディへの愛情からだとか、いろいろ語られています。
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クイーンにまつわるトリビア
スラング - Queen
ミュージシャンで歌詞を作る人は、言葉の遊びが大好きですが「Queen」というワードはスラングとして「ゲイ、おかま」という意味があります。クイーンというバンド名はフレディが名づけ親で、フレディの「(英国)女王」への愛着に加え、そのものものしく、華やかでよいとの理由に基づいたものではあったが、他メンバーはあまり乗り気でなかったのもうなずける。金銭的にも長いこと受難が続き、「ボヘミアン・ラプソディ」がヒットした後もフレディとロジャーは以前からの生業である古着屋を続けざるを得なかった。最初に契約した制作会社がブラック企業のようなもので、契約条件が劣悪だったといいます。最初から Queen は「イロモノ扱い」される要因はあったということですね。
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