遠藤周作の傑作、『沈黙』を構想28年、映画界の巨匠、マーティン・スコセッシ監督が映画化した力作。日本にキリスト教が伝播した時代にも、いやらしいドロドロした人間模様が描かれる。
ストーリー
島原の乱(1637-38年)の後ぐらい、17世紀(江戸時代初期)のお話(フィクション)です。それは、キリスト教が一番弾圧された時代に、二人の神父が日本の村を訪れ、キリスト教化をもくろみます。
でも、キリシタンが潜んでいる情報を得た、長崎奉行がその二人を拘束しようとします。四人の村人は二人をかばうのですが、その一人、キチジロー以外は処刑されてしまいます。
キチジローはクズなので、人を裏切っては、また懐に入り込み、また裏切って逃げるってことをやります。そして、トドメは棄教して転びとなった元神父、ロドリゴに懺悔を聞いてほしいと無茶ぶりします。
みどころ
- 宗教(キリスト教)にまつわるを信仰の難しさと美徳、そしてテーマの重さ
- 俳優陣の迫真の演技と、何気ない自然描写の美しい演出
- 沈黙を保つ神はささやいてくれるのかという普遍的な疑問と答えキャスト
アンドリュー・ガーフィールド(セバスチャン・ロドリゴ神父役)
イエズス会から来たロドリゴ神父は、日本で真面目に布教活動をしますが、最後はキリスト教を捨てます(棄教する)。
として棄教した神父は、人間のクズ(いわゆる転び)になったと自覚しますが、逆に言えば邪教の呪縛から逃れられ、日本人にまでなれて、東洋の美女を伴侶にできたのだから、スーパーサクセスストーリーを歩んだようにも見えます(あくまで日本人から見た解釈)。でも、当人は神父としては失格で、日本人としても中止半端ってことで一生を終えてしまいます。
神父でもなくなったロドリゴですが、日本人になり日本人妻をめとって、普通に仏教徒として生きるのですが、魂を抜かれたように抜け殻になりました。普段は、幕府の貿易で、舶来品でキリスト教の影響が強いもの、例えば十字架や、聖母マリア像などを含む物品、書物を排斥する役人として働きます。
キリスト教徒からしてみれば、ロドリゴは裏切り者になり下がったことになります。
ところが、すでに神父でもなく、キリスト教徒ですらもなくなったロドリゴに、キチジローが「神父様、私の懺悔を聞いてください」と懇願されます。「私にはもう懺悔を聞く資格がないんだよ」と固辞するのですが、キチジローは「あなたは私の懺悔を聞くことができるはずです、お願いです」と押し込まれ、「じゃぁ、形だけだけど」と、懺悔を聞いてやります。
ここで、初めて今までずっと沈黙を保ち続けていた神が、ロドリゴに語りかけます。
リーアム・ニーソン(クリストヴァン・フェレイラ神父役)
フェレイラ神父はイエズス会最強の神父で、リーアム・ニーソンが演じています。フェレイラは遠い日本で、キリスト教を捨て、大日如来に帰依する仏教徒、日本人になってしまいました。
最強の神父が布教に失敗する国、日本、そこではキリスト布教は不可能だと、イエズス会に不穏な雰囲気が漂います。
フェレイラはロドリゴ神父とガルペ神父に尊敬されています。ロドリゴとガルペは「日本で、あんなイエスもいない極東で、棄教などするわけがない」と信じられず、二人は日本に渡ることを決意します。
アダム・ドライバー(フランシス・ガルペ神父役)
ポルトガルのイエズス会の神父で、師であるフェレイラが棄教したことを知ると、ロドリゴ神父とともに、キチジローの手引きで、日本のトモギ村に密入国します。
その村でキリシタンの村人たちにかくまわれ過ごす。身の危険が迫ったためにロドリゴ神父と別れて平戸に向かいます。
その後捕らえられ、棄教を迫られるものの拒否する。日本人のキリシタンが簀巻きにされて海に沈められる時に泳いで助けに向かうが、役人によって海に沈められて死亡。
窪塚洋介(キチジロー役)
窪塚洋介が演じるキチジローは、日常生活、職場、学校、町内会のメンバーの中など、どこにでもいる、信用ならないヤツです。最初から最後まで、情けなくて、ズルくて、弱くて、ザコくて、とどうしようもない野郎です。でも、この人物が、本作品の核を担っています。
中国・マカオで漁師をしている日本人で、キリシタン(キリスト教徒)なキチジロー。コイツの話だから、嘘か本当かわからないが、かつて弾圧を受け、踏み絵により棄教を示した。でも、自分以外の家族は踏み絵を行えず(イエス様、マリア様を足蹴にできないということで)、眼前で処刑されたらしい。
キチジローは他人を売り飛ばして自分に厄難がかからないようにとり図るタイプではなくて、一旦、厄難に会ってしまい、そこから裏切りを自己防衛手段として活用し、生を掴むタイプ。
何度も神を裏切り、マリア像に唾を吐きかけたと思ったら、次には「今度こそ信じます」と、コロコロする奴です。現実社会にはどこにもいます。こんな奴がいないところを、私はいまだに知らないです。
悪い奴ではなと思うけれど、マジな仲間にはしたくない。小銭なら貸してあげるけど、大金なら貸したくないような人です。この時代、時代を考えると、キチジローの行動は合理的でもあり、誰もがそうするものだと思います。
実は、原作ではこんなヤローが、一番まっとうなキリシタンの本質だったりします。
キチジローは似非キリシタンなんですかね、一応は。でも、この役柄の窪塚洋介は最高ですよ。本人も、もしかして楽しんで演じてるのかな。
イッセー尾形(長崎奉行・井上筑後守役)
長崎奉行の井上筑後守(イッセー尾形)は筑後国の国司。
自ら足を運んでキリシタン狩りを行う行動派。穏健そうに見えるのは、あくまで知性がそう見せているだけで、キリシタンの根を絶とうと、異教徒への態度は厳しい。
「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と、イエズス会の神父たちに棄教を迫ります。知的で英語も話す、インテリ奉行です。
塚本晋也(敬虔なキリシタン、モキチ役)
モキチは、トモギ村のキリシタン。ロドリゴ神父とガルペ神父が村にやって来たことを喜ぶ村人。ロドリゴ神父から十字架を受け取り、一方でモキチは、村で崇められていた小さな木の十字架をロドリゴ神父に贈る。
キリシタン狩りで捕らえられ、踏み絵は踏むが、マリア像にまでツバを吐きかけられなかったために死罪となる。波打ち際にはりつけにされた状態で賛美歌を歌って耐えるが、四日目に死亡。
ナレーターから美術、俳優、監督まで何でもこなすベテラン塚本晋也が演じるのが、敬虔なキリシタン、モキチです。ダサくてイモい田舎もんキリシタン役ですが、上手いですね。
最近では『野火』に代表される監督としての塚本晋也を思い浮かべますが、役者としても健在ですね。今回も命がけのシーンがあったため、体重を20キロ以上落として、ほぼ女性の体重40キロ台にして演じたそうです。
スコセッシ監督は、監督としての塚本晋也は知っていたらしいが、俳優も本業であるということは知らなかったらしく、オーディションでは同一人物かどうかわからなかったそうです。
笈田ヨシ(村長のイチゾウ役)
トモギ村のキリシタンの長がイチゾウ。
ロドリゴ神父とガルペ神父が村に来てくれたことを喜ぶ。ロドリゴ神父が五島列島に出向いている間に奉行によって捕らえられる。村人たちの会合では、ロドリゴ神父とガルペ神父を放出するという意見に対しては、「パードレはわしたちが守る」と頼もしさを見せる人物。
奉行による取り調べで、踏み絵はクリアしたが、マリア像にツバを吐きかけられず死罪をうける。波打ち際にはりつけにされた状態で放置後、死亡。
神戸出身で劇団四季出身の舞台俳優、笈田ヨシ(おいだよし)さんはいい感じですね。劇団四季の時代は笈田勝弘という名前だったと思います。主にフランスで活躍されている俳優なので、日本ではお見かけすることは少なめです。
出演作は、どれも見る人を選ぶインテリ系の戯曲やオペラで、白水社から演劇関係の著作も出しているインテリです。
本作では、司祭の代わりに洗礼を行う、村長のイチゾウじいさんを演じています。味がある演技で作品に溶け込んでいます。
トリビア
この映画を最近見た人は、なぜアメイジング・スバイターマン(アンドリュー・ガーフィールド)とカイロ・レン(アダム・ドライバー)が日本で布教活動してるんだと思ったことでしょう。しかも、二人の元ボスがクワイ=ガン・ジン(リーアム・ニーソン)になってます。
この先入観に侵されてしまう、笑えてきてしまうのでご法度です。
裏切りがテーマ
本作は遠藤周作氏の小説です。遠藤作品のコアは裏切りですので、本作も仲間が身内を裏切る、宣教師がイエズス会を裏切る、人が神を裏切る、といったテーマが、根底に流れています。人間の生理的な醜さを表現するのが遠藤周作です。
遠藤周作氏は敬遠なクリスチャンで、本原作はその遠藤氏が書き上げたということもあり、とてつもない重いテーマです。何もしない神を、ひたすらキリシタン弾圧を通して書ききっているわけです。
それでも神に対する愛が消えないのが、遠藤氏の作品のすごいところで、むしろ西洋でいう神への愛より高次元に昇華した感すらああります。
トリビアですが、本作を書いていたころの遠藤氏は、テレビなどでよくコメンテーター的に登場していました。ちゃらんぽらんな感じで、ええ加減なコメントしないでって感じの印象がありましたが、氏の書く作品は本当に重くてすごいです。本作から感じる遠藤周作像と、生の遠藤氏のギャップを感じざるを得ませんね。
人は見かけによらないってことですか。
遠藤周作の『沈黙』では、神はどう描かれているか?
原作の『沈黙』と本映画の『沈黙』では、かなり印象が違います。原作の神は「なにも語ってくれない」点に力点が置かれています。この貧しい村人たるキリスト教徒が、「こんな状況でもあなたを信じているのに、なぜあなたは励ますことすらしてくれないのですか?」みたいなことですね。
もっと突き詰めれば、「なぜ何もしてくれないのですか?」というキリスト教徒の永遠の神への問いかけですね。何もしてくれない神に対して、もしかして、「神なんていないんじゃないの?」と疑う気持ち、この悪魔のささやきにどう対峙するかが、原作のテーマです。
映画の『沈黙』では、拷問の前にして信仰心を捨ててしまう教徒が描かれますが、これこそがキリスト教徒の本質ではないかと、遠藤氏は問うています。むしろ、拷問に耐えて信仰を捨てない強さなどは、全能の神の前で何の意味があるのか、高々個人のショボい信仰心の強さなど、神の前で意味を持つのか、ごますりでしかないだろ、みたいなキツい意味が込められています。
これは、カソリック教徒である遠藤周作氏が、毎日神の前に祈りをささげて、信仰を続けていくような強さを否定しているよう意味も込められています。遠藤氏は死ぬまで信仰は捨てていなかったことも留意しましょう。
キリスト教的には、神の前ではすべては無力なのだから、信仰をすてて棄教した者も、そうでないものも違いはない。違いがあるように、都合の良いように教会が解釈を捻じ曲げるなという、強烈なアンチテーゼを含んでいます。
だから、カソリック教徒が『沈黙』をどう読むかで、どう解釈するかで異端の書にもなりかねないリスクを含んでいます。だから傑作です。
結局キリシタンって?
本作品で登場してくるイエズス会の連中ですが、カッコつけて宣教なんて宗教染みたこを言っています(この時代のイエズス会の連中のことですので、誤解なきよう)。
イエズス会はカソリック協会の中の一派閥みたいなイメージです。戦闘力を持ったカソリック教団、というか装集団ではありませんが、現地に根を張って、生き抜いて、サバイバルして、強烈に布教を推し進めるという団体です。信じたくない人も信じさせようとする、無関係な人から見れば、はた迷惑な人たちです。
イエズス会のヤバいところは、国王などに影響力を及ぼし、最終的には命じて従わせるという権力を得てしまうというところです。また、当時ポルトガルなどの西欧諸国が、アジア人を小ばかにして、適当に植民地まわりで捕まえた日本人を奴隷として、野郎らの母国に連れて行こうとします。
時代をさかのぼりますが、秀吉の時代のポルトガルは図に乗っていて、アジアごとき大きな大砲を見せつければビビるから、つべこべ言わずにまとめてこいと、雑なことをします。
秀吉はデカい大砲を見せられたら、さっそく「これ売ってくれ!」とポルトガル商人と宣教師に商売を始めるのですが、「これは売り物じゃない!」と拒否されます。
疑い深い秀吉は、「売るつもりがない破壊力のある武器を俺様に見せるってことは、ははぁん、これで俺たちを攻撃するつもりだな」と判断します。じゃあ、ザコい宣教師どもの邪教の呪縛を開放して、商売しやすくしてやろうと、キリスト教弾圧に邁進したというオチがつきます。
さつ奴隷貿易ですが、この犯罪現場に必ずと言っていいほどいたのが、イエズス会の宣教師(牧師)で、この本質を見抜いた幕府は、徹底して弾圧に入ります。
宣教師そのものは純朴な精神の人かもしれませんが、歴史的に見れば、この時代のコヤツらはマフィアとそん色ありません。戦国三武将の中で、秀吉の評価は分かれるところですが、キリシタン排除に努めたことは、よくやったと褒めるべきことです。
実は奴隷貿易に反対していたイエズス会
アジア人を奴隷として母国に連れ帰ろうとした業者の傍らにいつもいたのがイエズス会の牧師であることは、上で述べました。しかし、実はイエズス会としては、この奴隷貿易に反対していたという事実があります。何回も何回も、イエズス会として、スペイン王やポルトガル王に反対意見を送っていました。
茶坊主に知能負けしてしまう牧師たち
この時代、日本をなめまくって、宣教しにきたイエズス会の神父が、禅宗の小坊主をたぶらかそうとチョッカイだしたら、コテンパンにやられた(論破された)という話は、いたるところで残っています。
歴史的には、宣教師マテオ・リッチなどは、中国でキリスト教を中国式に合わせた活動を行い、布教に成功しましたが、日本はそう簡単にはいきませんでした。
上の禅宗の小坊主も強敵ですが、住職クラスになると派遣された宣教師ごときでは、思考レベルが高くて相手になりません。こんな輩が、日本全国に普通にいたのが当時の日本です。田舎小坊主すら論破できずに結局、無力さに打ちひしがれた宣教師が多かったということも知っておきましょう。
鎖国中の日本に潜入して(つまり密入国です)、捕まえられて、拷問されて、踏み絵踏まされて、棄教したみたいな話は、小中学校の教科書に載っていることです。しかし、多くは拷問に至る前に、宗教的思考を放棄し、ほぼ棄教している宣教師が多く、拷問の部分は踏み絵前のおかざりと考えてもよさそうです。
沈黙こそが、真のキリスト教の愛だとさとる
本作『沈黙』では、棄教してもしなくてもキリスト教の神は何もしてくれませんでした。でも、ロドリゴ神父は棄教したのだけれど、それでもまだキリスト教の神への愛は捨てていません。何もしてくれない神ですが、神への愛は残っているのです。
でも、それでいいのですね。神が高々一人の宣教師、数十人の村人ごときに何かしたら、エコ贔屓の神になりさがり、自由と平等もへったくれもないからです。
そのことを悟ってロドリゴ神父は、棄教を貫き、日本で亡くなります。仏教式の葬儀で火葬されます。ロドリゴはかつてモキチから託された小さなキリスト像を握って、遺体が炎に包まれます。
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